「鬼龍院花子の生涯」など、多くのベストセラー小説で知られる作家、宮尾登美子(1926~2014)が中央文壇で認められる前に別名義で書いた短編の存在が明らかになった。雌伏の時期の貧乏生活がうかがえる一編で、出世作「櫂(かい)」に始まる自伝的作品群につながる貴重な資料だ。
見つかったのは「前田とみ子」名義の「貧乏感懐」。名入りの400字詰め原稿用紙に書かれた70枚程度の短編だ。家に質草が無くなってもぜいたく癖が収まらない40代前半の女性と、あきれながらも連れ添う新聞記者の夫との、借金返済に追われる日々を戯画的に描いている。
(2026年2月14日/朝日新聞)
1962年に「前田とみ子」名義で発表し、女流新人賞を受けた『連』の他に未発表の作品があると知り、発売日の2月20日(金)を待ちかねて高知市内の書店に駆け込んだのだが、「地方では発売日が1日遅れるため2月21日(土)発売となるところ、週末21日(土)~23日(月)は3連休、土日祝日は配本運送業者が休業のため、早くても2月24日(火)の発売となる」とのこと。
東京在住で、今回の『貧乏感懐』の発表を知らせてくれたかたから、東京の書店では販売されていたと連絡をいただき、2月22日(日)に ♪ もしや もしやに ひかされて~ ♪と書店を訪ねたら、「24日(火)の発売ですが、配本予定の冊数すべて予約をいただいています」とのこと。
落胆する小生に老舗書店の店員さんが、「県内の僚店に店置きがまだ残っているかもしれません」と調べて下さり、1冊取り置きを、しかも最寄りの帯屋町本店まで配送の手配までしていただいた。
鬼籍に入られて久しくなってしまったが、実の息子のように可愛がってくれた先輩が、生前よくこの書店の創業者を熱く語ってくれていた。
年毎に経営が厳しさを増す地方の書店業界にあって、この高知の老舗書店には、創業者御夫婦のイズムが連綿と受け継がれている。
『コトバンク』によれば『貧乏感懐』の「感懐」とは、「ある事柄に接して心を動かされ、ある思いを持つこと。また、その思い。感想。感慨。」と説明されていた。
「貧乏感懐」と聞いて、「単独遊山感懐」が思い浮かんだので、書き留めておきたい。

梶ケ森(2019年3月24日)

伊予富士(2012年7月8日)
山登り、林道巡り、滝巡り、廃線鉄道跡巡り、等々、およそ我が遊山は「単独行」で、還暦を過ぎた辺りから、これまで無事故で来られたことに感謝して「一人歩き」はいい加減でやめるよう、周囲から警告され続けている。
別に団体行動が苦手なわけではない、どちらかと言えば人間好き、遊山でもゴルフでも「わいわい!ガヤガヤ!」が好きなのだが、遊山が「単独行」になったことには理由がある。
山歩きを本格的に再開したのは、待望のHondaリトルカブを買って林道巡りを始めた2008年の4年後、2012年の「大座礼山」(大川村)登山だった。
登山を本格的に再開する前も、海山川で一生懸命に遊んでいたのだが、「せっかく本格的に山歩きを再開するのなら、サークルに入ったほうが良い」と熱心に勧めてくれる山屋の友人がいて、彼が紹介してくれた登山愛好者のサークルに入り、何度かグループ登山に参加した時代があった。
そのサークルには会則や会費はなく、登った山の山頂でお弁当を食べながら次の山を決めて、行ける者は参加する、そんな自由気ままなサークルだった。
会員の皆さんも、老若男女、職業も千差万別、愉快なかたの集まりで、実に楽しかったのだが、次第に裏ボス的な二人の男性長老の言動に違和感を覚え始めた。
高知の岳人の登龍門の一つ、「梶ケ森」(大豊町)に登ったことを報告した時だった。
「龍王の滝」から「定福寺奥の院」まで登り、「真名井の滝」「天狗の鼻」を経由して「梶ケ森」に登頂、帰りは「霊水」「ゴロゴロ八丁」を経由して「龍王の滝」駐車場まで下山したと報告すると、長老の一人が、
「そのコースぢゃ梶ケ森へ登って来たとは言えん、豊永駅から登って大田口駅へ下山して初めて梶ケ森へ登ったと言える」
と、いつもの苦虫を嚙み潰したような、それでいて眼光だけは鋭い、爬虫類のような眼差しで指摘された。

最近の一般的なコース
「怒ってんの?そういう顔なの?」と言いたくなるような、もう一人の長老も、
「今の若い者はなんちゃあ知らん、やっぱり山は王道を登らんといかん、これやき素人は困る」
と、それが口癖の「やっぱり」と「素人」を、これでもかというぐらい連呼された。

長老たちの言う王道
高校3年生のお別れ遠足が、隣りのクラスとの2クラス編成による「梶ケ森」の「王道登山」だった。
まだ夜も明けきらない早朝、高知駅から上りの始発普通列車に乗って「豊永駅」で下車、頂上まで4時間ほどかけて登頂、帰りは牧場の中の道なき道を「大田口駅」へ下山した。
息子が中学生か高校生だったか忘れたが、ハメ(マムシ)の産卵期(実際にはハメは胎生)に「王道登山」をしたこともある、古道を知らないわけではない、周囲は気の毒そうに見ていたが、言い返す気にもならなかった。
石鎚山系の秀峰「伊予富士」(本川村)に登った時の報告を、別の山の山頂で昼食時にした時もそうだった。
「どうせ東黒森側から切り返して登って来たがぢゃろ?、桑瀬峠から登らんと伊予富士へ登って来たと言うたらいかん」
ラクに登れる東黒森からのコース
「今の若い者にゃ、桑瀬峠から登る王道を知っちゅう者はおらんろう、いよいよこれやき素人はいやよ」

長老たちの言う王道
この日は2度目だったのでいささか頭に来て、
「その日は小さい子供さんも参加してくれちょりましたき」
と答えたら、
「そんなことやき今の子供は育たん、だいたい大人が甘やかし過ぎる」
と返され、
「どのコースを登ろうと俺らあの勝手じゃいか、放っちょいてくれ」
と言い返そうと、「どのコースを登ろ・・」まで口に出した時、友人に止められた。
「お2人とも御立派ですのお、工石山(くいしやま:高知市)も、僕らあみたいな赤良木(あからぎ)峠からじゃお話になりませんろう、城(地名:じょう)の登山口か、嫁石(地名:よめいし)からの裏工石コースですかの?」
と聞くと、「やっぱり」と「素人」が口癖の長老のほうが、よほどカチンと来たのか、
「俺らあは、樫山峠から三辻山へ登っちょいて、工石山へ回ってから赤良木峠へ降りて来る」
とのたまわくので、
「ありゃ、裏工石コースじゃのうても、玄人さんのことやき、なんぼいうたち、せめて城(じょう)の登山口から登られるもんとばっかり思うちょりましたぞよ」
と言い返すと、それが2人のいつもの所作だが、腕組みをして口をへの字に曲げたまま、「何も知らない素人」たちに教育的指導をするための、次なるお小言を考えている様子だった。
定年退職前から、前職場でキャンプ大会のスタッフや、登山のガイドをしていたが、子育て真っ最中の若いお父さんやお母さんにお伝えして来た事がある。
初めてキャンプに行った時、古来からの方法でのBBQの火起こしを強要させ過ぎたり、初めて山登りに連れて行く山は、あまりに上級者向けの山にはしないこと。
過ぎたるは猶及ばざるが如し、子供達には「ただただ心労(しんど)かった」という記憶だけが残り、2度目を誘ってもおそらく御身足は上がらない。
「楽しかった、また行きたい」と思わせることが大切、草書の登山は、楷書の登山の後でないといけない気がする。
四国でも厳しい登山道の一つと言われる、伊予富士の登山道で説明したい。
【桑瀬峠コース】
「UFO(雄峰)ライン」の東入口、旧「寒風山トンネル」(寒風山隧道)南口から、土佐から伊予への往還道にある「桑瀬峠」への最初の急坂を登り、しばらく稜線道を歩いた後、山頂直下から最後の急坂を喘ぎながら登る、伊予富士登山の王道。
水平距離2700mで高度差650m
最初の急坂
最後の急坂
【東黒森コース】
「UFO(雄峰)ライン」を西に進み、「東黒森」への登山口から入山、途中で「伊予富士」へと東に切り返すコースで、前半500m、後半900mの、緩やかな笹原の坂道になっている。

水平距離1400mで高度差200m
「UFO(雄峰)ライン」から「東黒森」分岐まで

「東黒森」分岐から「伊予富士」まで
2つのコースの距離、高度差、登山道の等高線を見ても、「東黒森コース」なら、秀峰「伊予富士」にラクに登れることが、地形図からも容易に見て取れると思う。
若いお父さんは山好きでも、お母さんはあまり乗り気ではないケースをよく聞くが、家族で最初に登る山には、伊予富士の「東黒森コース」を是非お勧めしたい。
もしかすると、「伊予富士みたいな山はほかにない?」と聞いてくれるかもしれない。
『貧乏感懐』(前田とみ子/宮尾登美子)が発見されたと聞き、「単独遊山感懐」が思い浮かんだのだが、これにも理由がある。
登山サークルへ誘ってくれた友人から、「この前の定例会でオマさんはサークルから除名されたぞ」と連絡があった。
友人は、「俺らあが作ったルールやき悪う思うなよ」と付け加えた。
周囲がなぜか裏ボスと一目置いていた、2人の御意見番の長老の言動が気に入らず、入会後ほどなくして友人に退会を申し出た時、「あの年寄りらあもいつまでもおりゃあせんき、そんなに腹を立てなや」と諭す一方、「お前の言いゆうことも解るき、こうしよう」と提案があった。
「訓練教官の後進への教育的指導と思うちゅうかもしれんが、いっつも何か言うちゃろうと荒探しばっかりして、しかも物言いが悪いところは俺も気にいらん、あんな年寄りにはなられんとびっしり思いゆう。そこでじゃ、例会の登山に参加しなくなったり、山の活動記録を発表しなくなったら、除名ということにせんかえ?そうしたらそのうちにいつかあの2人も除名できる」
2人の長老は、それから何年か後に相次いで旅立ったので、除名が適用されることなく自然退会となった。
定年退職後の現在の仕事が小ぜわしくて、次第にこのサークルの山行に参加できなくなり、せめてと思い機関誌に駄文を投稿していたのだが、禿筆もやがて折れた。
例会では中年世代から、「ルールを決めた人を特別扱いするわけにはいかん、除名やむなし」との意見も出たという、健全なサークルだと感じた。
滅多に顔を出さない年寄りにたまに参加され、今度は何を説教されるのだろうと身構え、ただ長くいるというだけで、年寄りに気を遣わねばならないのは、若い者にとっては煩わしい話、「最後にもう1回皆んなと登ってお礼とお別れがしたい」と乞うと、友人からは「そういうがを、要らんことをすな、というがじゃ、まだ解らんか、ちったあ勘取れ」と窘められた。
サークルの2人の御意見番の他にも、ああいう年寄りにはならないようにしようと思った先輩が、昔の職場にも、少しだけ関わった町内会の役員の中にもいた。
晩年は机に座って、部下からの報告提案を待っていればよかった人にとって、自分への報告提案は部下の当たり前の仕事、それに助言をしたり、進捗状況を管理するのが自分の仕事、報告提案をして来る部下は「ういやつ」で、して来ない部下には徹底的に教育的指導をする、そういう人に多かった。
彼らに共通していたのは、「口は出すけど手は出さない」ことで、大きな組織で働いていた、元管理職の人に多かった。
そういう人たちは町内会の役員に推されることも多く、会合では「本来は」や「そもそも」や「基本的には」の枕言葉に続けて、御高説を滔々と述べられるのだが、「良いお考えですね、それを実際にやってみていただけませんか?」と振ると、「いやいや、それはあなた達の仕事でしょう」とすぐ逃げて、まるで良い提案をするまでが自分の役目だと言わんばかりの高飛車な目線。
そういう手合いに限って、皆んなで共同作業をしていても、自分は何もしないのに、「もう出来た?」「あと何日かかる?」と、まるで作業工程の遅れに苛立つ現場監督で、「俺がやっていた頃は、もっと早く出来ていた」と言わんばかり、TBS火曜ドラマ『じゃあ、あんたが作ってみろよ』の世界だった。
さすがに上司には言わなかったが、町内会ではいささか頭に来て、「そんなことやってみんと判るかえ、それほど言うならお前がやってみてん、オンちゃんは何ちゃあしやせんじゃないか、手が足らんということばあは勘取ってや」と言い返したら、「近頃の若い者は口の利き方も知らん」と怒って帰っていった。
周りの役員たちからは、「よう言うてくれた、スッキリした」と褒めてくれたが、次の年の役員就任の要請はなかった。
『貧乏感懐』から、ただの年寄りのボヤキ節になってしまったが、今回除名されたサークルの他にもいくつか、定年後はもっと参加しようと思っていた人の集まりがいくつかある。
このままいくと、それらすべての人の集まりから除名されてしまう、ギアを上げるか下げるかしなければ、何とかなるろうじゃあ何ともならん所まで来た。