それでは、300万年の時空を超えた造化の神の傑作、神秘の洞窟「伊尾木洞」の世界へ!
洞窟部分そのものは約40mと短いのだが、「山椒は小粒でビリリと辛い」とでもいうか、約40種類といわれるシダの群生とともに、かの「龍河洞」や「秋芳洞」に劣るとも勝らない、いぶし銀のような輝きを放っている。
まだ行かれたことがないかたは、ぜひ一度入洞してみてほしい、「高知にこんな所があったとは」と思うこと請け合いである。
「伊尾木洞観光案内所」で貸し出しもしてくれるのだが、小さなお子さん連れの場合には特に、履き慣れた長靴や登山靴など、くるぶしを包む高さの靴と、お持ちの方は登山用ステッキや杖など、防水と防マムシのグッズを持参して行くことをお勧めしておきたい。
"土佐くろしお鉄道"「伊尾木」駅から
東へ約500m
「有井城」城址が残る里山の麓へ
「伊尾木洞」入口
「3つの滝」での折り返す一般的なルートの場合、片道約400mで滝までは約10分だが、「3つの滝」から「東山森林公園」方向に段丘を登り、反時計回りに周遊する「40分コース」も紹介されている。
「伊尾木洞観光案内所」で貰った「伊尾木洞散策ルートマップ」にも、「3つの滝」からさらに反時計回りにビニルハウスや田んぼの中を周回し、「太平洋が見える見晴らし良好ポイント」から津波避難路を通って「寅さん地蔵」へ降りて来る「40分コース」が紹介されていた。
この時季は大丈夫と思うが
「マムシ」に注意して洞内へ!
長さ約40メートルの洞窟には、コキクガシラコウモリ、モモジロコウモリ、キクガシラコウモリ、ユビナガコウモリなどの"およけない"名前のコウモリ諸氏や、ニホンアマガエル、シュレーゲルアオガエル、タゴガエル、ツチガエルといった、こちらはやや愛嬌のある名前のカエル諸氏がお住まいとのこと。
カエルは人の足音に敏感で、誤って踏みつけることは滅多になく、むしろ目指して踏みつけることがむつかしいぐらいだが、洞窟の天井にぶら下がっているキクガシラコウモリは、人の気配に気付くと体をくるくると回して超音波を発して回りを探ろうとするらしい。
くるくる体を回しているうちにコウモリが目を回し、天井をㇵッシと掴んでいた足を離して頭上に落下するやもしれず、蝙蝠傘に似た羽がペチャッと頬に触れでもしようものなら気を失い兼ねない、用心の上にも用心を重ねよう。
これは余談だが、石鎚山系の鋭鋒「子持権現山」の鎖場へ向かう途中、付近に多く棲んでいるいるという巨大なツチガエルに出くわして仰天したことがある。
登山道の前方の、ハンドボールぐらいの大きさの丸い塊に気付いてはいたが、濃いめの色をした丸い砂岩だろうと思って鼻歌交じりで歩いていたら、直前まで微動だにしなかった塊が突然モソモソと動き出し思わず後ずさりした。
最初はそれがカエルだとは思いもしなかったが、後にも先にも、あんな巨大なカエルは見たことがない。
洞窟を抜けた先が
「ホウビシダ」の群生地帯
「ホウビシダ」という名前は
「鳳凰の尾」に
何年か前の大雨で崩落したと聞いた
岩肌にノジュール(団塊)が見える
「団塊」という言葉は
1976(昭和51)年に連載が始まった
『団塊の世代』(堺屋太一/著)で
広く知られるようになった
【団塊の世代】
団塊の世代(だんかいのせだい)とは、日本において第一次ベビーブームが起きた時期に生まれた世代を指す。焼け跡世代(あるいは戦中生まれ世代)の次の世代に当たり、第二次世界大戦直後の1947年(昭和22年)〜1949年(昭和24年)に生まれて、文化的な面や思想的な面で共通している戦後世代のことであり、大学進学した人は、学生運動が最も盛んな時期に相当する。第一次ベビーブーム世代とも呼ばれる。日本経済においては第二次世界大戦後の高度経済成長、バブル景気を経験している。この用語は経済企画庁の官僚であった堺屋太一による、オイルショック後の日本経済がこの世代によりどのように変わっていくかを描いた未来予測小説の題名『団塊の世代』に由来している。
厚生労働省は、白書において「団塊の世代」ではなく、「団塊世代(1947年(昭和22年)〜1949年(昭和24年)生まれ)」としている。この定義に従えば、現在の年齢は73〜75歳となり、日本の医療制度上は、前期高齢者(65〜74歳)〜後期高齢者(75歳以上)に該当する世代である。
この3年間の年間出生数は260万人を超えている。1947年(昭和22年)生まれは267万8792人、1948年(昭和23年)生まれは268万1624人、1949年(昭和24年)生まれは269万6638人であり、3年間の合計出生数は約806万人にのぼる(厚生労働省の統計)。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
潜って来た洞窟の出口の方向を振り返ると、周辺はかつて土佐湾の海の底だった場所で、化石となった貝殻などを含む砂や泥の地層の「穴内層」が剥き出しになっていて、左岸の山肌には「ホウビシダ」が群生している。
洞窟の北側出口があるこの岩壁の向こう側の太平洋の海底で、310万年前~230年万年前に作られた「穴内層」という地層が地震によって隆起、それが波で打ち寄せられる砂利で平らに削られて「波食台」となる。
やがて「波食台」の上に土砂がたまって「段丘」となり、「段丘」はさらに隆起して海岸の大きな崖となるが、この崖の岩盤の割れ目に波が打ち寄せ続けることで、海側に「海食洞」が作られる。
「海食洞」ができた周辺の地層がさらに隆起すると同時に海面が低下することによって、「海食洞」は海岸から離れた内陸の洞窟となるのだが、そこにそれまで伏流していた川が、山側から洞窟に流入することで現在の「伊尾木洞」が出来上がる。
現在は、おおむねこのあらすじで、「伊尾木洞」が作られてきたと考えられているそうである。
3体の彫刻は
たしかこの付近に
配置されていたように思う
もう一度洞窟の出口を振り返ると
左岸に
シダの生えていない場所がある
この付近が大崩落の跡だろうか
それにしても
崩れ落ちた土砂を
どうやって
「細礫~中礫」エリア
「滝まで300m」の奥に
「マムシに注意」
マップに「橋」とあったが
これは「橋」ではなく「倒木」
道なりに倒木の下を潜り抜ける
たしかにシダの種類が多い
なかなか良(え)いですやいか
妙に藪ってきたが行けるかねえ?
取り舵を切ると踏み跡が現れた
潜って来た倒木を振り返る
「順路」の標識の先に
案内板が立っている
右手に小谷が合流するこの辺りが
「砂岩ー礫岩の境界」らしいのだが
高校の「地学」の時間も
おおむね居眠りしていたので
岩を見ても全く見当もつかない
滝までのほぼ中間点になる
ちょっとした渕になっている
「滝まで200m」とある
「だあ~ 行(い)てもおかねえ~」
踏み跡が川原から離れて
山の上へ登り始めたぞよ
山歩きの雰囲気も楽しめるとは
手水鉢があるので
この付近が「神社跡」かと
道に迷うということはない
ただただ
「マムシ」に注意するのみ
前方にしっかりした普請の「橋」
対岸に渡るとすぐに
梯子で川原に降りるらしい
橋の欄干は丈夫い緑色の大綱
橋の上から左手に下流を見る
「滝まで100m」
残り4分の1になった
少々小太りの人でも大丈夫
橋も梯子も質実剛健のイメージ
川原の両岸から「穴内層」が迫る
ふと水面を見ると
シイの実が流れ着いている
しばらく川原を歩いてきたが
再び踏み跡が山の中へ登り始めた
もう1本あった倒木の奥に
「3つの滝」が現れた
「東山森林公園」「かかしの家・コスモス畑(秋季)」「伊尾木公民館」とあり、一瞬「伊尾木公民館」へはここで引き返しでは?と思ってしまうのだが、この案内板は「40分コース」のもので、ここからぐうるりと反時計回りに里道を歩き、洞窟入口から西に150mにある「伊尾木公民館」、つまり「寅さん地蔵」へ降り立つコースの道案内である。
滝壺を左下に見る位置に来た
「3つの滝」は
「3段の滝」のことだろうか
滝は何段かに分けて落ちていた
踏み跡はさらに山上へと続くが
この辺りで引き返して
待ち合わせ場所の「いおき家」へ
こう見えてそこそこの高さがある
森の番人のような古木の根
団体客の姿はまだない
危険個所にはトラロープもある
なんぼ近道でも
この橋はよう渡らんねえ
たしかに「段丘」の地形に見える
次第にシダが増え始め
地球の皺も現れて来る
気の遠くなるような時間をかけ
「海食洞」を
背後から穿孔してきた流れが
「伊尾木洞」北口へと続いて行く
大雨の日の流れは
相当に迫力がありそう
梯子と橋の場所まで下って来た
山側に大綱が設置されているが
山菜採りと同じで
手を伸ばした先に
あのお方様がいることが多い
「3つの滝」から
4分の1ほど下って来たが
団体客は洞窟入口辺りなのか
姿はもとより声も聞こえない
雰囲気の良い里道が続く
小さい川ながらも
次第に川幅が広くなって行く
中間点まで下って来た
洞窟の方から団体客の声が聞こえ始めた、おそらく「ホウビシダ」の群生地帯でガイドさんの説明を受けている頃合いかと思われる。
「ホウビシダ」の群生地帯ではもう少しゆっくり撮影したいので、ここで給水を兼ねて小休止することにしよう。
落ち着いてゆっくり読んでみると、「穴内層」が作られた310万年前から230万年前の間は、「鮮新世」から「更新世」にまたがる時代だそうで、「ジュラ紀」や「白亜紀」はかろうじて記憶があるが、「鮮新世」や「更新世」は全くの初耳。
高校の「地学」の時間は完全に熟睡していたらしい、山好きのユニークな先生だったのに、またまた後の後悔先に立たずが一つ増えてしまった。
下流側の倒木が見えて来た
右側の木も根元が怪しいが
息災にお過ごしいただきたい
「ホウビシダ」の群生地帯が近い
地元ガイドさんの
団体客への説明を盗み聞きした後
「ホウビシダ」の群生地帯は無人に
『ドラえもん のび太の海底鬼岩城』だったか、『ドラえもん のび太の日本誕生』だったか、映画館で観た記憶がある背景に似ている。
「雨だれ石を穿つ」という言葉がある、伏流水が「海食洞」を穿ってできたのが「伊尾木洞」だというが、その製作期間たるや到底人知の及ぶところではない。
この「穴内層」は太古の昔は太平洋の海の底だっただけに、この付近の川原では、絶滅した二枚貝「モミジツキヒガイ」の化石が見つかることがあるそうである。
高知市出身の民俗学の巨星、桂井和雄先生の『桂井和雄土佐民俗選集』全3巻の第2巻に、『生と死と雨だれ落ち』という著作がある。
昔の藁葺き屋根や茅葺き屋根などのように、雨樋がない屋根の端から雨が庭に落ちると、屋根の端の真下に、庭に落ちる水が庭を穿った真っ直ぐな水の流れる溝ができ、これを「雨だれ落ち」と呼んでいた。
子どもの頃、雨の日に祖母の家で見た「雨だれ落ち」の光景は、子供心にも何とも清浄な眺めであって、屋根から落ちて来る雨水が庭の土に直接当たると泥を跳ね返すので、丸い小さな玉石が敷かれていて、それはまるで小さな川のようだった。
長じてから『生と死と雨だれ落ち』を読んで、土佐では「雨だれ落ち」と呼ばれるこのいわば小さな川は「三途の川」とも考えられていて、人の生と死に大きく関わる結界のような場所だったと知った。
人が亡くなって住み慣れた家に最後の別れを告げる出棺の際、「雨だれ落ち」にあった玉石をお棺の中の故人の枕辺にそっと入れたり、「雨だれ落ち」を最後にお棺が跨ぐ時には特別な作法があったと書かれていた。
ちなみに、新しい靴を履いたまま家から外に出ることを忌み嫌うのは、出棺の際に棺を担ぐ人が、家の中から新しい草鞋を履いたままでお棺を家の外へ担ぎ出すからと言われている。
「雨だれ石を穿つ」は、「石をも穿つ」と聞き覚えたように思うが、「伊尾木洞」は伏流水が「海食洞」を背後から穿ったものと知り、群生するシダもたしかに神秘的だったが、遠い昔に祖母の家の庭で見た、「雨だれ落ち」を連想することで「伊尾木洞」がさらに神秘的に感じられた。
2007年に訪ねた時は、上段の洞(うろ)の方だったと思う、仏像のような彫刻が鎮座していたが、大崩落で罹災したのだろうか姿が見えない。
岩肌に散在する突起物は「ノジュール」(団塊)で、「団塊世代」の「団塊」の語源である。
【団塊】
団塊(だんかい、英: nodule、concretion)とは、地質体中に見られる、周囲と成分の異なる塊。ノジュールともいう。堆積物の砕屑粒子の隙間が鉱物で充填されてできたものはコンクリーションという。
内部に化石を閉じ込めていることがあり、その場合には周囲の母岩よりも硬い団塊が地面の圧力に耐え、内部の化石は立体を保っていることが多い。従って化石採集の際には、雨や川による浸食を受けて露頭から落ちた団塊を探すという手法も採られている。
(出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia))
それでは
「伊尾木洞」北側出口から
再び約40mの洞窟に入り
「伊尾木洞」南側入口へ抜けよう
「安芸市」といえば思い出すのは、安芸市と馬路村を繋ぐ「猿押林道」、「高知安芸自転車道」のサイクリング、「童謡の里安芸」ならではの市内の歌碑巡りなどの、遊山途中に立ち寄って来た、手打ちうどん、シラス丼、焼きナス味のシャーベットなど、もっぱら食道楽。
ただ、若い時からずっと訪ねてみたいと願って来た安芸市の「古井」集落を、昨秋ついに「伊尾木川」上流の「伊尾木森林鉄道」跡に訪れる機会を得てからというもの、再び「伊尾木洞」への興味と関心が高まった。
2007年夏に初めて入洞した日は晴天だったが、洞窟を抜けた先のシダの群生地は、真夏の強い陽射しをも通さない神秘的な緑色の世界で、地元彫刻家の作品であると今回初めて知ったが、そこには強く印象に残る彫刻作品が展示されていた。
展示されていた付近に大雨による大崩落があり、約15年ぶりとなる再会はならず、今回の「伊尾木洞」再訪で唯一の心残りとなってしまった。