「高知市薊野」(あぞうの)の「真宗寺山」に、幕末の「四大人斬り」の一人で、「人斬り以蔵」と恐れられた「岡田以蔵」が、「岡田宜振」の名前で累代墓地に眠っている。
「以蔵」の人物像を決定付けたのが『人斬り以蔵』(1964年/司馬遼太郎)で、イメージアップをしたのが『龍馬伝』(2010年/NHK大河ドラマ)といえようか。
斬る者、斬らせる者、斬られる者、それぞれにそれぞれの正義というものがあったのだろうが、同じ「人斬り」と呼ばれても、後世の人に愛し慕われる「以蔵」の魅力はどこにあったのだろうかと思い、春の里山を歩いてみた。

高知市の北環状線の沿線
高知自動車道「高知IC」の西
「真宗寺山」に墓所はある

家電量販店と回転寿司との間を北に

よく知られたマンションを右に見ながら
突き当りを左折西進するとすぐ

この電柱の案内板が墓所への入口

「岡田以蔵」は、上士と下士の身分差別がとても厳しかった土佐藩の、高知城下「七軒町」(現「高知市相生町」)に生まれた。
「以蔵」の家と併せて七軒の家が建っていたことから「七軒町」と呼ばれていたようで、「土佐勤王党」の密書や文章の中に「七以」とあるのは、「以蔵」のことを指す暗号だったとのこと。
「以蔵」は「武市半平太(瑞山)」に師事し剣術を学び、その後江戸に出て、「鏡心明智流」の名門「桃井道場」に入門し、「中伝」の伝位を得る。
「土佐勤王党」では、「武市半平太」に命じられるまま暗殺を行っていくが、剣の才能は非凡ながらも、一説によれば浅学であったため、「武市半平太」に「暗殺の道具」のように使われたといわれ、「山内容堂」に提出した「土佐勤王党」の血盟書からも「以蔵」の名前は除外されている。
民家の間を山裾へ

簡易舗装された里道を西へ

擁壁に貼られていたものは?
避難通路標識と鳥居マークを見たら右折

「岡田以蔵の墓」の案内板

ジグザグの石段を登って行く

津波避難用の通路が山上へ続く

たいそう鬱蒼としている

いかんいかん
この形はいかん
この形はいかんがじゃき

海抜10m地点で左に切り返す

要所要所に道案内がある

海抜15mは道なりに右上へ

海抜表示と道案内が黄色になった

海抜20mでは青色に変わる

この海抜20mにある三差路の突き当りで
「岡田以蔵宜振墓」の杭を左に見ながら

そのまま東方向へと直進すると

前方は「以蔵の墓」で
後方は「絵金の墓」の
年季の入った渋い道標

この辺りから累代墓所までは
フラットで陽当たり良好な里道

まるで里山のピクニックの雰囲気

「おまんよう来てくれたのう
我(わ)しやうれしいぜよ」
レトロな土佐弁表記が懐かしい

あちこちに春の使者が顔を出している

「吉田東洋暗殺」を取り調べていた土佐藩下目付「井上佐一郎」を暗殺した時から、「以蔵」の「人斬り」人生が始まり、その後は「天誅」と称しては、「武市半平太」の命のままに暗殺を繰り返して行く。
そんな「以蔵」も、土佐藩の参勤交代の衛士に抜擢されたことがあるほか、「坂本龍馬」の紹介で「勝海舟」の、その「勝海舟」の紹介で「ジョン万次郎」の護衛をしていたこともあり、「勝海舟」は「以蔵」に対し、人殺しのことを忠告したこともあったらしい。
また、「勝海舟」は、「武市半平太」の「以蔵」に対する扱いや、「土佐勤王党」の行く末を思い、「坂本龍馬」のように「武市瑞山」とは訣別するよう促したが、「以蔵」の心を変えることはできなかったという。
「武市半平太」のためならば、「武市半平太」の命とあらばと、多くの人を斬って来た「以蔵」は、数少ない心を開いていた人であった「武市半平太」の裏切りを知り・・・
「宜振」の読みについては
「よしふる」の他にも
「たかのぶ」「のぶたつ」等
諸説あり正しくは不明だという

現在も全国から参拝の人が絶えず

墓前に花が絶えることもないという

県内外の「以蔵」を慕う人々から
多くの句が投稿されている

寄せ書きノートと
お線香などが備えられている

電波塔が墓所の西に見える
どうやって行くがじゃろ
今度調べてみんといかん

「以蔵」の生涯がさらりと紹介されている

イタドリのような細い竹

「慶應元年乙丑 閏五月十一日歿」
打ち首、獄門となった命日と

「行年二十有八」とが刻まれている
気付かずに帰って来たが
一番下の台座正面には
最近のものと思われる字体で
「以蔵」と刻まれているらしい
墓所で見るとやや無気味

海抜20mの分岐に戻ると
麓への道が左下に見えているが
正面(西)に見える道を登り
「絵金の墓」へと向かう

突き当りに「絵金の墓」への案内板はなく
左上には細い踏み跡が見えているが
ここも道なりに右上へと進む

1本目の避難用通路標識

2本目の避難用通路標識

「イヌマキ」の説明板の右前方
大きな木を右に曲がると

大きな木の向こう側に
「以蔵」とは因縁の深い
「武市瑞山」の実弟である
「田内衛吉」の墓所への案内板

右折ししばらく北へと分け入ってみたが
老朽化のため横倒しされているとも
最近になり再建されたとも聞いたが
墓所を見つけられず引き返してきた

そこそこの里道が北へのびているが
「絵金の墓」はこの先にはない

先ほどの分岐へ戻り
西へと直進を再開し
避難通路標識をいくつか過ぎると

少し開けた場所に出て

その先で道が左右に分かれているので

左下への里道へと進むと

「絵金の墓」に着く

「絵金」の墓石には
「友竹斎夫婦」と刻まれている
左は次男「弘瀬俊三郎夫婦」の墓

案内板によると、
後に「雀七」と改めたが本名「弘瀬美高(よしたか)」は少時より画業を志し、江戸で狩野派を学び、土佐に帰国後は家老桐間家の御絵師となり、通称「金蔵」の他にも「友竹斎」や「雀翁」の号を用い、名字帯刀を許され「林洞意」と名乗っていた。
その後、異例の出世と不羈奔放の才を妬まれ、狩野宗家の偽絵を描き悪銭をかせいだとの汚名のもとに追放され、すべての地位と名誉を失った。
謎の歳月を経て、城下周辺に「絵金」(「絵師の金蔵」を縮めた呼称 )と呼ばれる浮世絵師として復活し、芝居絵屏風、絵馬提灯、奉納板絵馬等に縦横の天分を発揮した。
幕末の商人旦那衆の強力な経済力を背景に、歌舞伎や浄瑠璃を題材とした芝居絵を描き、力強い墨銭と泥絵具の鮮烈な彩色で、土佐の庶民を陶酔させた、
とある。
土佐の奇祭の一つ、「どろめ祭り」が催される旧「赤岡町」の「絵金祭り」の夏の夜、ロウソクの灯に浮かび上がるおどろおどろしい屏風絵は一見の価値あり。
「絵金蔵」などのキーワードで検索すると、画像や記事がたくさんヒットするので、是非ご覧いただきたい。

手前にあった「絵金の墓」から下りて来て
「田内衛吉」墓所への分岐はスルーし東進
ここを左(北)に曲がっても
その先に「絵金の墓」はない

海抜20mの分岐の上に到着

避難用通路を下って行く

お墓参りの一日となったので、高知自動車道「高知IC」の南にある「板垣退助」の累代墓所へもお参りしておこう。
「高知IC」を出て高知市の塚ノ原方面へと接続する、大きな右カーブの前方に見える小高い山に、「板垣死すとも自由は死せず」で知られる「板垣退助」の累代墓所がある。

南麓の住宅街からも行けるが
「高知IC」からの流出路の
側道の峠からがわかりやすい

中央左上から右下にかけては
先日開通したばかりの
真新しい「高知南国道路」

フジの花が良い塩梅

石段を登り切ると小さな広場があり
この広場の東から正面の森へと入る

そのような低い位置におられると

妙に前を歩きにくいですぞね

一族のお墓がたくさん並んでいる

左手の上段(北側)には
「板垣退助」夫妻の墓があり
板垣家の旧姓「乾」氏の墓石群は
おもに右下(南側)に並んでいる

こちらは

板垣退助の五代前の先祖の墓

そしてこちらは

板垣退助の九代前の先祖の墓

分家の墓もある

明治維新に興味のあるかた
ぜひ一度この地にお運びを

「高知IC」の出口にこんな所があるとは

向かって左は「板垣退助」の妻の墓

墓所には凛とした空気が漂う
竹藪の中なのに蚊の気配がない

右上に「西ノ峰山」の鉄塔が見える

「民権史跡案内図」

側道は歩行者専用道路につき
ここから下へ降りるとすぐに

「法経堂のケチ火」を鎮めた
「黙堂和尚」の墓所がある
最近不思議とよく目にする
「終活」の二文字
備えあれば憂いなし
そろそろ真剣に考えねば

「武市半平太(瑞山)」の道場は、高知城下「新町田淵」(現「桜井町」)にあり、門下には、「中岡慎太郎」や「岡田以蔵」など、「土佐勤王党」の志士が数多くいた。
「武市半平太」と聞くと、旧「横浪スカイライン」にあった、初代の銅像を思い出す御同輩も多いのではないかと思われる。
武骨なイメージを表現したといわれればそれまでだが、できればこの体型にはなりたくないと思わせる五頭身で、現在のスマートな銅像は二代目の銅像である。
そして「武市半平太」といえば、NHK大河ドラマ『龍馬伝』に登場する「半平太と冨」夫婦をイメージするかたも多いことと思う。
かくいう小生も、このドラマの「半平太と冨」夫婦の対話シーンを見て、すぐさま旧「吹井村」(ふけいむら)、現在の「高知市仁井田」に「武市半平太」の生家を訪ねたことであった。

前日までファンだった女優でも、今日見たドラマの役柄が気に入らなかったらたちまちファンをやめるほど、現実とドラマとの区別がつかないのが昔からの困った癖だが、今回、「岡田以蔵の墓」を訪ねるにあたり、「武市半平太」のことを調べているうちに、「武市半平太」に対してこれまでどうも思い違いをしていたのではあるまいかと思うに至った。
歴史の真実は当人だけしか知らないことで、後世の小説やドラマでの創作かもしれないが、こんな話を聞いた。
「八月十八日の政変」(文久3年8月18日)により、それまで隆盛を誇っていた「土佐勤王党」は急失速、土佐では「山内容堂」を中心とする「土佐勤王党」弾圧が一気に高まり、「吉田東洋」の暗殺や京洛での一連の暗殺について、首領「武市半平太」を含む「土佐勤王党」の志士はことごとく捕えられ、京都に潜伏していた「岡田以蔵」もまた罪人として幕吏に捕えられ、土佐藩吏によって土佐に搬送された。
これも身分の差によるものだが、郷士であった「武市半平太」自身は拷問を受けることはなかったが、「土佐勤王党」の志士たちは連日厳しい拷問を受けることとなった。
女性も耐えたという拷問に、「以蔵」は喚き叫んだといわれ、「以蔵は誠に日本一の泣きみそ」と「武市半平太」から酷評されたという。

捕えられ厳しい拷問を受ける「土佐勤王党」の志士たちの中には、拷問に耐えかねて死んでいく者も出始めるなか、ほどなく以蔵は拷問に屈し、自身の罪状と天誅に関与した同志の名を自白、新たに逮捕される者が続出し、「土佐勤王党」の崩壊のきっかけとなって行く。
「以蔵」の自白がさらに各方面へ飛び火することを恐れた獄内外の同志によって、以蔵のもとへ毒を差し入れる計画まで浮上したが、「武市半平太」が強引な毒殺に賛同しなかったことと、「以蔵」の親族からの同意が得られなかったことから、暗殺は未遂に終わったという。
なんでもこの毒殺計画は、「吉田東洋」暗殺の背後には山内家保守派層の関与が公然の秘密であったため、お家騒動へと発展することを恐れ、「以蔵」毒殺計画が仲間内で相談されたいうことらしい。
「以蔵」の自白のきっかけが、「以蔵」が自らの毒殺計画を知る前であったか後であったか、あるいは単に拷問に耐えかねてのことだったかは知らないが、『人斬り以蔵』(司馬遼太郎)では、「以蔵」が獄中に差し入れられた毒入りの弁当を何事もなく平らげたため、二度目には毒薬そのものを差し入れて暗に自害を促したが、「以蔵」はその毒薬を踏みにじり自白に及んだ、と描かれているそうである。
一方でNHK大河ドラマ『龍馬伝』での「以蔵」は、「武市半平太」に最期まで従順で、拷問に耐え抜き最後まで自白しなかったと描かれている。

「武市半平太」はこの強引な毒殺をとめる一方では、「以蔵」の父親から、「以蔵」毒殺の許可をとってくるか、自害を求める手紙を寄越すよう、「以蔵」の弟で「土佐勤王党」の血盟者でもある「岡田啓吉」に対し、獄外の同志を通して連絡を取らせたという。
これらのやりとりの最中に、「武市半平太」の弟である「田内衛吉」は拷問に耐え切れず、兄に毒薬の手配を頼み牢内で自害、「武市瑞山」の妻「冨」の従姉弟の「島村衛吉」は拷問死した。
「武市瑞山」ら「土佐勤王党」の志士たちが頑なに一連の容疑を否認したため、死刑となったのは、首領「武市半平太」の切腹と、「岡田以蔵」ら4名の自白組の斬首のみだった、ということになる。

自白組の一人、「岡本次郎」が「武市瑞山」に宛てた書簡には、「以蔵」について、「是迄の不義、血を出して改心」としたためられており、「以蔵」が自白を反省していた様子がうかがえるという。
「以蔵」の辞世の句は、「君が為 尽す心は 水の泡 消えにしのちぞ すみ渡るべき」だが、はたしてこの句を「人斬り以蔵」はどんな気持ちで詠んだのであろうか。

「横堀公園」近くにあった「木屋橋」の
由縁が掲載された「高知新聞」の記事

「武市半平太」の道場は
右対面の駐車場付近にあったらしい

「以蔵」が斬った人の中に、「猿の文吉」(ましらのぶんきち)という、「安政の大獄」時に「島田左近」の手先として、多くの志士を摘発した「目明し」(岡っ引き)がいる。
「猿の文吉」は「島田左近」の高利貸しの手伝いもしていて、阿漕な取り立てをして法外な金子を得たり、御所の女官を強姦したりしていたので、志士たちから強い恨みを買っていた。
このため、「猿の文吉」の「天誅」には参加を希望する者が相次ぎ、籤引きをしたという話が伝えられている。
籤引きで3人の中に選ばれた「以蔵」たちは、「猿の文吉」を「三条河原」の杭に縛り付け、「斬るのは刀の穢れになる」として「細引(細い紐)」で絞殺したいうが、ここでその先の「天誅」の様子を紹介するのはいささか躊躇われる。
「猿の文吉」は多くの民衆にも嫌われていたため、遺体に投石する者まであったという。
殺害された後、見せしめのために晒された遺体の背後に立てられた「捨札」(罪科を書いた札)に、「いぬ」と書かれていたことから、権力者に尻尾を振ってその手先となって動く小悪党を、犬にははなはだ迷惑な話ではあるが、「〇〇のいぬ」という慣用句が生まれた、という説があるそうである。
斬らせる者、斬る者、斬られる者、いずれも寂しい話だが、斬る者からも「斬るのは刀の穢れになる」と嫌われ、亡骸に礫を投げられるほど民衆からも嫌われるのはもっと哀しい。