旧松山街道(越知町~旧吾川村)
2015年 05月 17日
かつてジョン万次郎や脱藩志士たちも通ったという往還道のうち、越知町横畠から朽木峠(くちきのとう)を経て、旧池川町へと越える鈴ケ峠(すずがとう)まで走り、黒森山を目指してみた。
この画像は、旧吾川村の天界集落「寺村」から、眼下に大きく蛇行する仁淀川を見たもので、「旧松山街道」の一部ではない。
が、しかし、冒頭でこの天界集落の画像を紹介するのには、是非ともご紹介したい事情がある。

高知市と愛媛県の松山市を結ぶ
国道33号線
越知町の横倉山を過ぎるあたりで
2時の方角のはるか山上に
やおら見え始める横畠の集落
越知町の横倉山は
植物学者牧野富太郎博士のふるさとでもあり
宮内庁公認の安徳天皇御陵参考地でもある

県道18号線の横畠橋から見る
黒森山は画像中央奥
海抜1017mの山頂は
ドーム状になっている
仁淀川の右岸にできた大きな崩落の跡
平成26年の雨量はやはり半端ではない

薬師堂の集落へ行くには
ここから右へ登るのが一般的だが

本来の往還道への入口である
堂ノ岡をまず見ておきたい

再び横畠橋の西詰まで戻り
標識に従ってUターン

道案内が充実している

薬師堂へは
右の道を登ることが多いが
左の栂ノ森へと進むと
八里塚で旧松山街道の
堂ノ岡からの「焼坂」に合流できる

山道の走り方のテッパン
お互いこうすれば
衝突は少ないし
しても衝撃が少ない

仁淀川が段々と下に見えてきた
横畠橋と比較すると
崩落の大きさがよくわかる

本日の最終目的地の黒森山は
鞍部にある鈴ケ峠より
さらにまだ200mほど上空

薬師堂の集落に到着
かつてこの地には県内で初めて
耶蘇教(キリスト教)の教会が
建ったこともあったという

横畠小学校の校舎跡の壁には
最後の在校生7名による
最後の運動会が描かれている

レトロな造りの簡易郵便局

大山袛(おおやまづみ)神社の鳥居

境内へと続く参道
この日は地区総出の夏草刈り
きれいに刈りはらわれている

鳥居の向こうに
拝殿と本殿が見える

この境内で、本日1人目の嬉しい巡り合せがあった。
境内で一人黙々と夏草刈りをしていた男性が、大山袛神社の故事来歴を解説してくれた上に、本堂の鍵を開け、県内では類を見ない見事な彫刻が施された社殿を見せてくださった。
数年前に朽木峠への道を電話で問合せたことがあったが、もしやこの方はその時の、『横畠虹色の里』という地域活性化運動のリーダーの方では?と思いお聞きすると、まさにそのご本人であった。
長州大工によって建立されたというこの大山衹神社の社殿は、県内では類を見ない荘厳さと緻密さとに溢れている。また、拝殿の天井に描かれている三十六歌仙、花鳥図、十二支の絵は、どれも地元の方が描いて奉納したものと聞く。社殿を雨風から守るために、社殿はさらにその外側に建てられた建屋で囲われている。実際にその中に入ってみると、神社ファンならずとも、驚愕の念を持たれるに違いない。
許可をいただき社殿の彫刻や拝殿の天井画を撮影はしてきたが、ブログにアップするのはいかがなものかと憚られ控えることにした。是非一度、ご自身の五感で、この驚きの異空間を体感していただきたい。
ではいざ旧松山街道へ
対岸に見えているのは
野老山(ところやま)の集落
そして野老山といえば
ラーメンの自由軒と
いもけんぴ

ここが旧松山街道への分岐点

旧松山街道は
ジョン万次郎の帰国の道でもあり
維新の志士たちの脱藩の道でもあった

途中にある虎吾堀
地元の人々が苦労して作った清水井出という約7キロの用水路を伝って、黒森山の東山麓からはるばる引いてきた水を蓄える池として掘られたのがこの「虎吾堀」。
かつて山本虎吾という人が、一反五畝の畑をコツコツと堀り抜いて作った池だという。

本来の古道は右上
杉の植林の中へと続くが
本日はカブのため
道なりに左の黒森山横道へ

このあと軽いアクシデント発生
今にして思えば
簡易舗装が切れた辺り
黒森山への分岐案内があったのに
そこで何を勘違いしたか
反対側の道へと下りてしまった
道に迷うもまた一興と
余裕をこいて下っていると

さすがはお茶の名産地

茶畑は良く手入れされている

「山の神の大田」といわれる
見事な棚田が広がる
北横畠の集落も見える

網の目状に張り巡らされた作業道に入っては、また同じ場所に戻ってしまう、を何度か繰り返すうち、本日2人目の嬉しい巡り合せが訪れる。この地のもう一つの名産、山椒の畑で作業中の男性に出会った。
朽木峠への道を聞くと、「兄(にい)やんよ、山の分かれ道で下りよったら行き着かんぜよ」と笑いながら、小石で地面に大きな地図を書いて教えてくれた。
「兄やんが行きたいと言う道は、この山椒畑のソラを走っちゅうが、ぼっちり道の真ん中にイノシシのヌタ場があって、道へ大けな穴が開いて水たまりに見えると思うが飛びこまれんぞ、存外穴が深いきに」とのワンポイントアドバイスをいただいた。
去り際には、「この畑のソラへ通りかかって、この作業小屋のトタン屋根が見えたら、クラクションを鳴らして合図をして行ってくれ、道がわかったもんじゃと思うてオンちゃんは安心するけに」と言いながら、「えいかよ、アシはこの道を聞かれたら、あの道はもう2度と行きとうないと人が言いよった、と必ず話しゆうぜよ。言うちょくぜよ、そんな道ぜよ」とも話してくれた。
再び本来の分岐点まで戻る
「黒滝」の分岐には
たしかに黒森山へは右と書いている

途中の商人休場

ここで簡易舗装に変わる

その簡易舗装も終わり
いよいよダートへ

前方にイノシシのヌタ場を発見
イノシシは体に泥を浴びて
体についた寄生虫や
汚れを落とす習性がある

かなりの山の上なのに
かつてここには「楠本家」という
邸宅があったらしい

「出口」と書かれた分岐に到達
ここを右に下れば「稲村」集落
今日は何度も道に迷うし
前回よりも道もかなり荒れている
カブも時折聞きなれない音を出す・・
この辺りで急に臆病風が吹き始め
この先さらに左へと進む気力が湧かぬ
道案内にも「出口」とある
高速道路のインターチェンジみたいで
出口という響きにも肩を押され
この地点でこのルートは断念

先ほどの楠本家跡まで戻れば
案内板の背中には
「耳切れ」という無気味な文字
ここでもう一度クラクション
山椒畑の男性に
無念の撤退を報告

さすがはかつての官道
人馬が行き交うには十分過ぎる道幅
傘を差した人同士でも
ラクに行き違いできる

よもやゴミ集積場ではあるまい
もしこれが収穫した農作物の
一時保管用のネットなら
これもイノシシ対策であろうか?

黒森山横道から朽木峠を経て
黒森山へと向かうことは断念
天界集落「寺村」から
岩戸川に沿って遡上
峰岩戸を経て
黒森山を目指す
あらためて
仁淀川北岸の道を
大板そして寺村へと溯上

アートに近い道路補修工事

11時の方角に
寺村の集落が見えてきた

眼下には仁淀川

消防信号の説明板がある
有線電話やサイレンが
集落での非常時の
連絡手段だったのは
ほんのこの間までのこと

大板東谷線への分岐に到着
本来ならば
右側に見えている
朽木峠からの道を下ってくる予定
であったが・・

山頂直下
トマト団地のビニールハウス
ハウスの裏を回り込んで
黒森山頂までは
その高度差はまだ約200m

「吾川のひょうたん桜」で知られる
その名も「桜」集落への分岐
旧松山街道も同じ方角

舗装が切れて
いよいよ最後の登り
ここでアクシデントが発生した。平成20年の夏に、念願のリトルカブを購入してから7年、メタボ騎手の体重と酷使に耐えに耐えて来てくれた『銀号』が、ついに悲鳴をあげた。
最初は倒木の枝を踏んだような音がしたが、さほど気に留めずそのまま走っていると、そのうちエンジンが静かに止まった。今日もここまで、相当ハードな走行を重ねて来たので、エンジンがかなり高温になったものと思い、その場で休憩を兼ねてしばしのクールダウン。
数分ほど経ってからエンジンをかけると、セルは元気なものの、『世界のホンダ』、カブのエンジンがウンともスンとも言わぬ。さらにもう一度エンジンを冷ましてから再始動してみたが、症状すでに完全に固定。これはもはや下山よりあるまいと諦め、ニュートラルのままゆっくりと高度降下を開始。
下りの途中で何度かためしに押し掛けすると、エンジンはかかるが、ギアが欠けたか、クラッチ板に支障があるのか、チェーンに問題があるのか、動力が車輪に伝わらない感じ。
はてさて、ここは越知町と仁淀川町の山境、しかも海抜約800mの高地。国道33号線までは下りられても、そのあとをどうしたものかと思案投げ首のまま、メタボ騎手とリトルカブはともに無音で下山。
いかな高山高地にも奈路(なろ)い部分はあるもので、100mほどカブを手押ししたが、こんなところがこの先にもあればと考えるといささか気が滅入る。

寺村小学校まで下りてきたが
お気に入りのビューポイントも
何やら色褪せて見える

武田信玄の伝説が伝わる寺村観音堂の手前まで辿り着いた時、やれ嬉しや嬉し、本日3人目、庭先で片付け仕事をしている男性との嬉しい巡り合わせ。
バイク屋をたずねると、この辺りにはないがお孫さんが高知市でバイクショップを開いているとのこと。すぐにお孫さんに連絡を取ってくれたところ、「明日の朝一番に回収に行き修理するので、バイクとキーを祖父にそのまま預けておいて下さい」、ということに相成った。
「この時間なら国道まで下りたら佐川までのバスがあるはず」と教わり、合わす手のある有難さ、寺村観音堂に手を合わせつつ寺村橋へと急ぐ。1時間に1本のバスがあるかなしかの辺境の地、タッチの差で乗り遅れたらと思えばひとりでに足早に。

下り立った国道33号線は、もうかれこれ30年近く前、当時はまだ国鉄バスだったと思うが、高速道路もない時代、松山市への出張で通り慣れた道であった。
「熊秋」バス停の手前あたりから寺村の集落を見上げていると、やがてバスは白い鉄橋「寺村橋」を渡り、すぐに寺村隧道に入る。トンネルを抜け、大崎を過ぎたあたりから、地名や景色は次第に愛媛県を感じさせるものへと変わっていく。
その寺村橋のたもとから、路線バスに乗る日が来るとは夢にも思わなかったが、このバス停にも、本日4人目、5人目となる嬉しい巡り合せがあった。
バス停やいずこ?と探していたら、「外は寒いのでご自由にこの中でバスをお待ち下さい」という貼り紙が目に入った。どうやら、お住まいの一画をバス待合所として提供されているようであった。
引き戸を開けて中に入ると、ご夫婦と思われるお二人がいて、ご親切にバスの時刻を道路の反対側にあるバス停まで見に行ってくれた。10分も待てばバスが来ると教わり一安心、ようやく一心地着いた時にご主人が、「終点の佐川駅までなら近っかいもんじゃ、車で送ろうか?」とまで言って下さる。
後日住宅地図を見ていて気付いたが、このお宅は、かつてご自身がブルドーザーをついて村中に林道を切り拓いたという、伝説の元村長さんのお住いであった。
そして、午前中に山椒畑で道を教えてくれた男性が、「兄やん、前の村長はすごい人やったぜよ、村中に自分でブルをついて道を付けた人じゃった」と、遠くを見るような目で懐かしそうに語っていたが、今まさにその元村長さんのお宅にいると思うと、とても不思議な気持ちであった。

ほどなく寺村隧道から
出て来たバスに乗車
バスの車窓からは
仁淀川の対岸に
さっきカブで走ってきた
大板集落の茶畑が見えている

やがてバスは
横倉山の手前
国道33号線から
県道18号線への分岐点
今朝は右折した交差点にさしかかる

路線バスの旅は
JR佐川駅で終り

佐川駅の1番ホームに
上り普通列車「高知行き」が入線

佐川駅からは
JR土讃線の各駅停車の旅

都会にお住いの方には
理解してもらいにくいが
土讃線は単線なので
しばしば途中の駅で
列車行き違いのために停車する

電車ではなく
汽車は
紙の町「いの町」の手前で
清流仁淀川の鉄橋を渡る

汽車はやがて高知市街へ
JR旭駅では
特急『南風』号と行き違い

線路はやがて高架橋に入り
最寄駅のJR円行寺口駅に無事帰還

この日は、一度吹き始めた臆病風がどうにも止まず、したがって撮影もおざなりになり、いわばコケ逃げの体たらく。
黒森山には、これまで3回登っている。登っているといえば聞こえが良いが、カブで2回、車で1回、山頂まで行ったことがあるので、その時の画像からいくつかご紹介したい。
【旧松山街道】 平成22年11月6日
「樺休場」

畑越しに仁淀川

「八里塚」
つまりここが高知城下から八里
約30キロということになる
鈴ケ峠の手前には
「九里塚」もあるらしい

校舎跡に書き残された想い出
在校生7人の名前も見える

「山の神の大田」

山上の横畠には

こんな意外な風景がある

「虎吾堀」

この日はユル抜きの後か?
泳いでいた大きな錦鯉はどこへ・・

「黒森山横道」分岐

「黒森山」の山頂アンテナ群

ここが朽木峠(くちきのとう)

峠のかたわらに建つ
黒森神社の鳥居

朽木峠で涼む『銀号』
この頃は
荷台に工具を積んでいた

野老山でも
大きく蛇行する仁淀川

【鈴ケ峠】 平成23年8月20日
鈴ケ峠への分岐

鈴ケ峠に建つ日燈と月燈

右の燈明台には
明治七年
左の燈明台には
私年号の「天晴」が刻まれている
江戸末期
明治維新の御一新
新元号には民衆の期待が
込められているが
実際の元号は「明治」となった
この私年号の「天晴」は

鈴ケ峠の広場
かつては
峠の店屋(てんや)で
賑わったことと思われる

黒滝山の山頂より南を遠望
どういうわけか
黒森山の山頂では
晴天に恵まれない

黒森山の山頂から
同じく南の遠望
見えているのは
日ノ浦か中屋敷の集落か
北には
雨ケ森、筒上山、手箱山
西には
中津明神山
が見えるはずだが・・
この日は展望は開けていなかった

【寺村集落】 平成20年3月29日



車窓右上、仁淀川の対岸に屹立する山肌に、校舎に見える白い建物を中心に、はるか山上までたくさんの家々が建ち並んでいる。
天空の集落をもう少し眺めていたいのに、鉄橋を渡るとすぐにトンネルに入ってしまう。そしてトンネルを抜けてから思う、はて?トンネルの入口側にも出口側にも、右折する道が無かったが、あそこへはどうやって行くのだろう?
国道33号線を走ったことがある人の多くは、どこか中津渓谷の入口、旧吾川村の名野川に似ているこの寺村の風景が記憶に残っているのでは。

【寺村集落】平成26年4月6日



この日の旧松山街道の遊山は、いろんなことがあり過ぎて、そして何よりも多くの人たちの親切に巡り会えて、忘れられない一日となった。
見知らぬ土地でカブが「ちゃがまって」(「故障してしまって」の土佐弁)困っている時に、人の姿をほとんどみかけない辺境の地のしかも沿道で人に出会えた幸運、そして助けを求めたその方のお孫さんが高知市内でバイクショップを経営しておられたという幸運、さらにその方が親切な方ですぐさまお孫さんに取り次いでくれたという幸運、そしてそのお孫さんが快く引き受けてくれたことの幸運、これまでさんざ不埒な悪行三昧を重ねて来たこの身の上には、誠にもって有り難い幸運であった。
翌朝早速、出勤前にカブを回収に行ってくれて、その日のうちに修理していただき、『銀号』はすっかり元気に回復し、軽やかなエンジン音が再び戻ってきた。

