自念子林道(いの町)
2014年 07月 15日
平成24年の夏、リトルカブを買ったきっかけの一つであった、「自念子林道」の完全走破に成功した。
高知県内の林道には、「自念子林道」の他にも「楮佐古小檜曽林道」や「椿山林道」など、通行可能の情報を聞いて週末に出かける計画を立てても、週半ばの大雨で林道が崩落したり消失したりする林道が多い。
さらに、最近は林道衰退の影響で入山する人が少ないせいか、現地に行って初めて通行止め、というよりは通行不能を知ることが多い。
まだ当分は遊山に出かけられそうにないので、もう2年も前のことになってしまったが、当時のアルバムからブログへアップしてみた次第。
自念子林道は、仁淀川の最上流部、
旧本川村の寺川集落から越裏門集落に。
いつ見ても鮮やかな仁淀ブルー
旧本川村長沢から見る瓶が森、
おやっ?そんなところにいましたか、
何遍も来るのに初めて見ましたぞ。
長沢ダムの右上に本日のゴール地点、
「竹の川林道」との分岐の三差路。
旧本川村でよくみかけるトイレ案内標識
赤い花も緑の葉に支えられている、
かのような、
吊橋の赤と仁淀ブルーのコントラスト。
「自念子林道」への分岐点、
「白髪神社」前で面舵いっぱい。
標識にはどの林道も行止まりとあるが、
自念子林道は約20キロ先で、
竹の川林道に合流するはず、、はず。
「自念子林道」へはここを直進。
左へと向かう本線は、
民俗学の巨星、宮本常一氏も
かつて取材に来られたという、
『寺川郷談』の舞台、
寺川集落へと続いている。
嶺北消防署の道標には、
林道「地」念子線との表示あり。
ほどなく視界が少しだけ開く、
これは東黒森山の稜線か?
徐々にゴキゲンな路面になって行く。
荷台に括り付けたお茶は、
激しい振動で泡だらけ。
このまま揺らし続けると、
いつかビールに?はならない。
いきなりナイスビューが眼前に。
左のコルは、この林道の名前にもある
「自念子の頭」か?
無名滝の涼風でしばしの休憩
この「なで肩」は、
「自念子の頭」の左肩か?
かすかに携帯電話の電波あり、
さすがは山屋ご用達のau。
これは石畳ではなく、
岩盤を平たく削った路面。
過酷なダートのその先に、
チラリと見えるお姿は、
「もしやそなたは余が憧れの?」
ついに「自念子隧道」に到着、
ならぬ到達!
さらにダートは厳しく続く。
するといきなり、
初めてのアングルで見る、
伊予富士、瓶が森、子持権現山
へと続く大パノラマ。
(逆光なのが実に残念)
さらに西には、
遠く石鎚山まで続く稜線を遠望。
やがて自念子林道の2番目の隧道、
「から瀧トンネル」に到着。
「マピオン」で印刷、切り貼りした
畳一畳に近い自作地図を広げ、
現在の位置を確認。
ここまでほぼ順調なフライト。
赤ペンキを吹き付けた岩が、
ガードレールがわり。
随所にある大岩の切り通し
岩に埋め込まれた道標、
シュールのひと言!
巨大な石柱の上に聳え立つ巨木
毛虫が付いていることが多いので、
この状況では徐行せず疾走して通過。
【林道瓶が森線で、伊予富士の真下あたりに、入口ゲートが閉まった林道を見かけた記憶がある方へ】
現在はほとんど廃道となっていますが、
あの林道は「上瀬戸山」の山麓を巻く
「上瀬戸林道」という作業道で、
林道瓶が森線からこの分岐点まで、
延々と下りながら続いています。
ここまで一人で心細かった悪路も、
まもなくゴール地点。
視界の先には、
長沢ダムを見下ろす
巨大な掘り切りのある峠。
今朝、この峠を見上げてきた
長沢貯水池がはるか眼下に。
惚れ惚れする切り通し
ダムから見えていた巨大な人工物は、
このコンクリート製の壁面吹付。
この三差路を左折(画面では直進)すると、
知る人ぞ知る「長沢山林道」。
路面は岩盤そのものでできていて、
街乗りのリトルカブには無理。
興味のあるかたは、
オフロード諸兄のサイトをどうぞ。
メタボの中年オヤジを、
ここまで寡黙に運んでくれた
「銀号」の雄姿。
左右の軍手で挟んだルートが、
本日走行してきたルート。
突き当りの三差路の、
ガードレールの向こうは断崖絶壁!
眼下に見下ろす竹の川橋
帰りの「竹の川林道」は、
これはもう、もはや舗装路に近い。
県道まであとわずかになって、
シブい名前の林道が出現。
残念ながら行き止まり
県道の旧道には、
これまたシブい橋脚の遺構。
再び越裏門に戻り、
旧跡「山中家住宅」へ寄り道。
先祖祭りをしていたというご一家に、
囲炉裏で焼いた味噌田楽をいただく。
故事来歴があるに違いない地名
堰堤というにはあまりにも高過ぎる。
堰堤最上部のコンクリートが、
盛り上がっているのが無気味。
石鎚山系を遊山する際の、
ベースキャンプ「喫茶うの花」へ。
手作り感に溢れた店内
ランチ人気№1の、
「鶏の唐揚げ定食」で遅めの昼食。
食後のコーヒー
お気に入りの窓側の席
この本を初めて知ったのは高校時代、図書室の掃除の時間であった。土佐と伊予の国境、奥深い辺境の地の庶民の暮らしが書き留められたこの書き物にすっかり魅了された。